藤沢店の田中です。
先日のブログで今週から「カリフォルニアの出張報告を書きます」と宣言しました。
初回はアレックスノストのことについて書こうと思い、昨日一つの動画を完成させました。
私自身、「アレックスは趣味程度にボードを作っている」と、これまでお客様にも説明していましたこともあります。
しかし、今回のカリフォルニアでそれは正しくないことだとわかりました。
正確には、以前はそうだったのかもしれません。
しかし、今回彼がシェープしたばかりのボードの出来栄えを1本1本確かめていた眼差しは、一流シェーパーと言われるデーンピーターソン、ロビンキーガル、トロイエルモアにも匹敵するものを感じました。
雑誌の休刊が相次ぐ昨今、どの情報が正しいのかを判断する基準(「スポンジボードとウェーバーのパフォーマーはどっちがテイクオフが速いですか?」など)、があいまいになり、あらためてアレックスノストについて説明しなければ、カリフォルニアのロングボードカルチャーは歪められて継承されるという危機感があります。
拙文ながらなんとかアレックスの価値を伝えていかなければと張り切り、「さあ、今日からは」と思った矢先、朝一番でとても悲しい知らせが届きました。
2001年の夏、デューイウェーバーのチームライダーとしてロビンキーガルと一緒に来日したクリスボーライクは、典型的なアメリカのガキそのものに悪戯の限りを尽くし、帰国後、チームライダーの契約を解除されました。
裕福な家庭に育った彼は、その後、学校を中退し、これもアメリカでは定番のドラッグにはまってしまい、海外を放浪することとなりました。
転機は2003年、ロビンキーガルが初めてのパーソナルブランド「Creme(旧)」を立ち上げたときにやってきました。
その開業前のショールームの壁にペンキを塗っていたのがクリスでした。
「何もしないでフラフラしてたから、使ってやっているんだ」と、ロビンは言いました。
幼馴染の二人は対照的な性格で、自由奔放、ポジティブに突き進む天才、片や人見知りで言葉少なく精神的な弱さを持つクリス。見た目以上に内面の違いを持つ彼らは、その後、カリフォルニアにクリーム旋風を巻き起こしました。
クラシックを継承しながらも天才的で独創的なシェーピングを行うロビン、そのロビンの頭の中をレジンアートで具現化したクリス。
アレックスノスト、CJネルソン、コーディシンプキンス、クリスチャンワックをチームライダーに揃え、それまでジョエルチューダー一辺倒だったカリフォルニアのロングボードシーンに革命的な変化をもたらせました。
パートタイムの使用人の一人だったクリスは、やがてアシスタントと呼ばれるようになり、そしてパートナー言われるまでにロビンの信頼を得ていきました。
しかし、2011年、ロビンキーガルがフランスへの移住の原点となった、ウェスタンサハラへのアドベンチャートリップ「ダイナミックエンデバー」の途上、ロビンとの決別を決意したクリスはアフリカの大地を静かに去っていきました。
その後、持ち前のレジンワークとシルクスクリーンの才能をいかしたアパレルブランド「パシフィックスペシフィック」を立ち上げ、順調にいっていると思った矢先、その精神的な弱さから将来を悲観し、再びドラッグに身を染め、徐々にビーチワールドから遠ざかっていきました。
ここ数年は、誰もが心配を口にしながらも距離をとっていたため、彼の動向を知る人は少なくなりました。
私が最後にクリスに会ったのは2022年の5月です。
ロビンのもとに長年にわたり苦楽を共にした私たち2人の想い出が詰まったダナポイントのハーバーで食事し、お酒をたくさん飲みました。
今朝、「誰かから人づてに聞くよりも早く、お前に知らせなきゃと思ったんだ」と、同じくロビンのもとで苦労を重ねたエバンから電話がありました。
「今日、クリスが亡くなった」と。
個人的なことなので、このブログで書くかどうか迷いましたが、ロビンのもとに隠れがちだった彼の功績を私は皆さんに伝えたいと思いました。
クリスがいなければ、ロビンキーガルも存在しなかったでしょう。
今出回っているレジンアート、シルクスクリーンを施した数々のボードはクリスボーライクの手によるものです。
彼が14歳の時に知り合い、カリフォルニアはもとよりパリ、メキシコ、モロッコと二人きりで何度も旅をしました。
その昔、控えめながらいつも主要なメンバーの中にいて、みんなに愛されていたクリスボーライク(愛称チズ)と呼ばれた才能あふれたアーティストであり、優秀なサーファーがいたということを皆さんに覚えていただきたいと、思った次第です。
この場を借りて、クリスボーライクのご冥福を心よりお祈りいたします。
Love ya Chiz!
シーコング
田中