藤沢店の田中です。
先日のブログではクリームの『ファットキャット』について書きましたが、今回はその『ファットキャット』を考案したロビンキーガルとの出会いについて書きたいと思います。
1998年に世田谷区東玉川の10坪の店舗で創業したシーコングは翌年よりカリフォルニアのクラシックブランドである「デューイウェーバー」の取り扱いを始めました。
当時から現在と変わらないカリフォルニアのブランドからの直接仕入れを行っていたため、市場の価格よりも40%ほど価格が安かったこともあり、当初よりたくさんのお客様にご利用いただいていました。
しかしどの業種でも同様に新参者への風当たりは強く、雑誌への広告掲載さえも受け入れてもらえない状況でした。
その後、2000年になり、私は雑誌「NALU」が第1回のロングボードコンテストを行うという情報を耳にしました。
それを聞いた私は「そこで優勝すれば雑誌にシーコングやウェーバーのことを取り上げてもらえるだろう」と期待し、取引先だったデューイウェーバーの本社に「誰か上手いサーファーを日本に送ってくれないか?」と打診しました。
そして大会を翌日に控えた2000年10月6日、成田空港に私はデューイウェーバーから送られてきた2人のサーファーを迎えに行ったのです。
到着ロビーに現れたのはおそろいの真っ赤なウェーバーのチームジャケットに身を包んだ21歳、ボス格のノアフリーランドと若干16歳のロビーキーガル(当時は皆彼のことをロビーと呼んでいました)でした。
初めての日本に興奮気味の彼らを自宅まで連れていく最中、寡黙なノアに比べ、「こいつよくしゃべるなあ」と私はロビンについて第一印象を落ちました。
大会当日、自宅の逗子から大会会場の伊豆白浜へは約3時間の道のりのため、早朝4時過ぎに出発したときも彼は話をとめることなく、「今回はバカンスだから歯磨きはしなくていいからうれしいよ」と奇妙なことを言い、途中のコンビニでは憧れだったどら焼きを大量に買い込み、「アメリカ人は餡子のすばらしさを知らないんだ」と言いながら頬張ってたのを思い出します。
会場に到着し、早速海に入ろうと彼らが持参したボードケースを開けて驚いたのはノアが持参していたのは9'4ftの真っ赤なパフォーマー、そしてロビンは9'8ftのスタイリストとプロフェッショナルモデルでした。
当時は私も大会はサイドフィン付きのボードが当たり前だと思っていたのですが、彼らはそれが信じられないとでもいうように、「シングルフィンだけがロングボードと呼べるものなんだ」といい、私の不安をよそに意気揚々と海に入っていきました。
そして再び驚くことがありました。
大会会場には来賓としてドナルドタカヤマ夫妻が来ていたのですが、私にとっては名前だけ聞いたことがある雲の上のような存在で、近寄ることさえ憚れていたのですが、ロビーは海から上がり、本部テントに座っていたタカヤマ氏に「ヘイ、ドナルド、WHAT'S UP?」と声をかけたのです。
どうやらロビーはすでにカリフォルニアではアップカマーとして有名な存在で、ウェーバーのチームライダーになるまではタカヤマ氏のボードに乗っていたとのことで、タカヤマ氏もまさか秘蔵っ子のロビーに日本で会うとは予想していなかったようで、周囲の関係者も含めロビーの存在に驚いていました。
それ以降は無名であったシーコングの存在をよそに、まさにロビンを中心に大会は回ったと言っても過言ではありませんでした。
彼はまず「ノーズライディングコンテスト」に軽々と優勝し、大会のもう一つの目玉であったスポンサーのBICのボードを使ってのコンテストにおいては、わざわざカリフォルニアのウェーバーの本社に電話し、他ブランドのボードに乗ってもいいか確認を取ったうえで(今ならそんなことするわけありませんが)出場し(9ftはサイドフィン付きのボードということでエントリーを嫌がり、出場しませんでした)、その部門でも圧倒的な優勝を飾りました。
※彼がどれだけ優れたサーファーであったかは、その日のコンテストの結果の他の入賞者をご覧いただければおわかりいただけると思います。
ロビーキーガルの活躍で、彼は見事に紙面を飾り、私たちは目的を達成することができました。
残念ながら、(諸所の事情があったと思われますが)彼の名前ももちろんシーコングの名前も本文には書かれなかったのですが、それでもウェーバーのトランクスを履き、紙面を飾ったことはその後のシーコングの評判を高めてくれたことは間違いありません。
まさに私、そしてシーコングとロビンキーガルの現在に続くヒストリーの始まりでした。
その翌年、再び来日した際にはすでにウェーバーのチームライダーとしての活動に飽きが生じていた彼は前年とうって変わり傍若無人の限りを尽くし、帰国早々にチームライダーをクビになりました。
それでもすぐさまタイラーハジキャンのチームライダーとなり、その後、当時カリフォルニアの錚々たるアップカマー達が集まっていたダノーのチームライダーになり、そして満を持して初の自身のパーソナルブランド(旧)クリームを立ち上げたのです。
タイラー、ダノーはもとより、トーマスキャンベル、アレックスノスト、ノーランホール、マット&ブリタニー、ジャレッドメル、コーディシンプキンス、クリスチャンワック、CJネルソン・・・彼がチームライダーとして活躍したり、自分の作ったボードを通じて得たネットワークを彼は思う存分に私に繋げてくれました。
彼自身はその友人たちとの間にトラブルを起こし、すでに周囲に彼のことを助け、助言する友人は少なくなり、まさに現在は孤高の人となってしまいました。
もちろん当時の私が今の状況を想像することはありませんでしたが、私が彼と腐れ縁と言われながらも繋がっていられるのは、シーコングの創成期を支えその後のすべての原動力となってくれた彼に対しての感謝があるからです。
若き日のロビーキーガルと知り合う以前、まだデューイウェーバーの宣伝ツールがなかったため、このような写真を使っていました。
名画「アメリカングラフィティ」で主人公の女の子の一人がデューイウェーバーの写真を着ているシーンです。
今日このブログを書いたのは、久しぶりにパソコンのアーカイブにこの写真を見つけ、当時のことを思い出したからです。
当時より現在まで、「テイクオフ最速」による変わらぬ人気のデューイウェーバー、『パフォーマー』、『スタイリスト』をぜひ手にして、カリフォルニアとシーコングの歴史を体現してみてください。
皆様のご来店、お問い合わせをお待ちしております。
シーコング藤沢店
田中