藤沢店の田中です。
ロビンキーガルは精力的にシェープに励んでいるようです。
グローバリゼーションに立ち向かうための新たなプロジェクトを開始し、現在は新しいブランクスの開発のため短いボードをシェープしています。
これらのボードが日本に届けられるかどうかはまだ決まっていませんが、とりあえず元気そうで何よりです。
そこで、先日書き始めてしまった、2012年の「ダイナミックエンデバー“SURFAR!”」の続きを書きましたので、お暇な方はご覧ください。
【ダイナミックエンデバー“SURFAR!” #2】
私たちが宿泊していたのはモロッコの首都ラバトの市街地のはずれにあるヴィラ形式のホテルで広大な敷地の中にいくつもに枝分かれした客室があり、庭には孔雀が放たれ、もちろんプールもあり、地下には「ハマム」と呼ばれるアラブのスタイルのサウナがあり異国情緒があふれていた。
このホテルはフランス人の裕福な一族が所有し、レストラン、ラウンジ、バーは非常に格式を感じ、他の滞在客を見ても非日常を感じさせてくれた。
一族の一人がサーファーであり、ガトヘロイのファンということでロビンをこの地に誘ってくれたというのが真相らしい。
当時は「アラブの春」と言われた民主革命がアフリカ北部のイスラム系の国で興っており、モロッコにも革命の波が来るのではないかと市街地には国連のマークを付けたジープがバリケードを築き、ライフルを携えた国連軍(?)が街のいたるところに配置され不穏な空気が漂っていた。
それでも市街地以外はどこ吹く風で、特にメディナと呼ばれる迷路のような旧市街地ではコーランが鳴り響き、初めての私を感動させるアラビアンナイトの世界を垣間見せてくれた。
ロビンの到着までには数日かかりそうなので、暇を持て余していた私たちをオーナーファミリーの一員であるアントワンがサーフィンに連れ出してくれた。
ホテルから1時間弱南西に走った「ボズニカ」は砂丘の下に広がるビーチブレイクで、ずいぶん遠くに来たなあと思わせるところだったが、そこから5分くらい走った丘の裏側はしゃれたサーフリゾートといった感じで、郷愁も吹き飛ぶようなモダンな光景に愕然とした。
レギュラーのポイントブレイクは風の影響を少し受けていたが、中村親子、クリスはフランス経由の長い旅の埃を落とすようにアフリカ初のサーフィンを楽しんだ。
そんなことをしながらロビンの到着まで数日を過ごし、いよいよ幾多のトラブルを乗り越え、ロビンとペロさんが到着する日となった。
大体の到着時間を聞いていたにもかかわらず、その時間になってもなかなか現れないのはいつものことなので、私たちはホテルのラウンジで彼らを待つことにした。
ロビンが携帯電話を持っていないことはすでに有名だが、彼は「ずっと昔は天気予報と地図を頼りに波乗りに行った。波が当たるときもあればそうでないときもあった。それがサーフィンだ」と完全に時代錯誤の考えを持っているためカーナビを使用せず、まったく当てにならない感だけを頼りに迷ったらとにかく現地の人に聞くのが常だった。
ところがロビンはどこに行っても大体現地の言葉がわからない上、理解してないのに理解したふりをしてしまうことがよくある。そのために1日中道に迷ったりすることも数知れず(信じられないことに事実)、路肩に車を何度も停めるために頻繁にタイヤをパンクさせた。
ましてやアラビア語。わからないなら、わかったようなふりするなよと、言いたくなるが、そんなことでも言おうものなら完全に逆上し、車を突然路肩に停めて(この瞬間によくパンクさせる)「なぜ俺はお前たちのためにこんなに苦労しなければならないんだ。俺一人だったらこんなことにならなかったのに。お前らは足手まといだ。この旅は終わったら絶対にお前らとはもう会わない・・・」などと1時間以上は被害妄想による口撃が始まるのは誰もが承知しているので、「きっと今頃ペロさんは助手席でロビンの言うことに片言の英語でイエス、イエスと同調してるんだろうな」と思いながら、私は当地の定番であるミントのたくさん入った甘いお茶を嗜むことにした。
それから数時間後、彼らは現れた。ロビン、ペロさんの車にはバンジョーを持ったちょっと小太りのブラッドフォード。彼はアメリカ東海岸ノースカロライナ出身のロビンのファンで裕福な家庭に育ち、自称プロのバンジョー弾きらしく、ロビンを追ってフランスに渡ったところ逆にロビンとペロさんにホテルに居候をされていたようだ。今回もただ単にお金を持っていいることと国際電話が掛けられる電話を持っていたことが評価されトリップのメンバーに加えられた。
ラウンジでブラッドフォードのバンジョーを聴きながら、すでにそれまでに起こった旅のアクシデントを披露しあっていたころ、もう一人のアメリカ人がバスに乗ってやってきました。(飛行機じゃないと言っているが、いったいどこからバスで来たんだろう?)名前はヤンペッシーノ。ニューヨークの東ロングアイランドの東端にある有名な景勝地にして大富豪の邸宅が並ぶモントーク出身の自称フォトグラファーとうことだが、どうやらその一族は世界的に有名なアルコール飲料の会社のオーナーらしく、彼もまたロビンのファンであったために金の力にものを言わせてこのトリップに参加したようだ。今回の旅ではフィルムカメラによる撮影を任されているらしい。
そのずっと後、このブラッドフォードとヤンは「ペソス」というインディーズバンドを組み、西海岸で大変成功を収めることとなった。
フランスからはもう一台やれたポンコツ寸前のフォルクスワーゲンのバンが到着した。後にロビンとともにガトヘロイフランスを立ち上げるギュエムとオリエンのカップルだ。ただし彼らはお金を節約するために、ホテルの敷地内に車をとめてそこで寝泊まりをするという、前述のワイルドに装っても裕福さを隠し切れないブラッドフォードとヤンとは明らかに違う、フランス人らしい本物ワイルドな雰囲気を漂わせていた。
ロビン、クリス、中村親子、ブラッドフォード、ヤン、ギュエム、オリエン、ペロさん、そして私が出発メンバーとなり、波のコンディションを見極めながらラバトを出発し、南西部のエサウィラという街でオーストラリアのアンディ、そしてカリフォルニアから当時ガトヘロイのマネージャーをしていたラリーと落ち合うということを聞かされた。彼らはあの有名なマラケシュからバスで来るらしい。
この時点で、どうやら私が思い描いていた、途中抜け出して格安航空券でヨーロッパを周遊しようという夢は断念せざるを得ない状況だとわかってきた。
この先は砂漠と瓦礫が広がる荒野のテントの中に身をゆだねるしかないようだ。
今までいろんなところにいろんなところを旅したがサーフィンしている時間だけではなく、朝のそわそわした雰囲気、サーフィン後のまったりとした時間もまた旅を楽しくさせてくれる。そして極めつけはやっぱり夜の時間だ。ビールを飲みながら一日を語り、ワインを飲みながら当地の食事を楽しむ、そして夜の街に繰り出す・・・
でもここはモロッコ。そうイスラム教を国教とする国だ。ご承知のとおり飲酒はかたく禁じられている。
と、思いきや私たちが泊っていたホテルのバーには多種多様な酒が並べられ、街中のレストランに行ってもそれに困ることはなかった。
その上、「秘密の」という酒屋も各町には数件あるようで、私たちが買い出しに行った時にも足の踏み場もないほどの繁盛を見せていた。
私たちは夜遅くになって街に繰り出した。目当ては「クラブ」だ。そこではビールを片手に踊り狂う者、目の周りに濃い化粧を施し物色するような眼を
向ける女性などで溢れかえっていた。まさにパリかニューヨーク?と思わせる実情の光景に少々驚かされた。ともかくこの旅でもお酒に困ることはないようだ。
翌日から、ミーティングが繰り返された。
私は勝手に、このメンバーだけでサーフキャンプに行くのだろうと思っていたが、広大な未知の場所で的確に波を当てること、砂漠や瓦礫の山での緊急時の脱出、犯罪のリスクなどを考え、現地のコーディネーターに全体を委ねることになっていたようだ。
隊長のカリームはフランス人とモロッコ人のハーフで見るからに屈強な体をいかしサハラ砂漠、アトラス山脈でプロのツアーガイドをしているらしい。
趣味でサーフィンをしているがモロッコからさらに南西に広がるウェスタンサファリまですべてのポイントを熟知している。頼りがいのありそうな男だ。
カリームの話ではここ数日間は天気が悪く、砂漠を走ることは無理らしい。雨の時は風向も悪く、海上にある低気圧が移動するのを待つということだ。
ロビンは広げられた地図を見ながらポイントブレイクがありそうな地形を一つずつ指さし「ここはどうだ?」「誰もいないということが大切なんだ」と言っていた。私は「おいおい、そんなとこまで行くの?」「いつ帰れるんだよ」と少々不安になっていた。
どうやら数日間は出発しないし、ホテル近郊でのサーフィンもないようだ。
メンバーはそれぞれに街に出かけたり、ホテルのプールで泳いだり、たまにホテルの景観を利用してサーフボードの撮影をしたりして時間をつぶした。
ある日、私はロビンに誘われ、クリスとともに三人で観光に出かけた。
ロビンと初めて会ったのは彼が16歳の時だった。最初の来日で大活躍をした彼はその翌年、クリスを伴って再来日した。アメリカ人にとっては貴重な14歳の誕生会を日本で祝った。あの時から12年が経っていた。
12年の間に彼らはカリフォルニアサーフィン界の寵児となった。
16歳当時、ドラッグ中毒に陥り世間からエスケープしていたクリスを最初のクリームハウスと呼ばれたショップを立ち上げるとき、壁のペンキ塗りとしてロビンは雇った。
クリスはアシスタントとして様々な雑用をこなしロビンを支えた。時には喧嘩して長期にわたり離れ離れになった時もあったが、時間はその障壁をいつも和らげ、彼らのコンビは続いた。
意図的に断絶されたロングボードとショートボードの真のトランジションを実現させる完璧なサーフボードづくりに没頭するロビン。その一途さのあまり周囲の人間と衝突を繰り返し、日常的にトラブルを抱えているロビン。そのロビンも内気でやさしい性格のクリスの才能を認めていた。
サーフボードに関する知識においてはロビンにも引けをとらず、レジンアートの技術と才能においてはロビンを上回っていた。ご存じのようにサーフボードはウレタンをシェープしレジンでラミネートされる。まさに彼らは一心同体だった。
アシスタントから始まったクリスのポジションは、この時はすでに公に“パートナー”として紹介され、その存在は広く知られていた。
ロビンが作る創造性の高いサーフボード、クリスが得意とするレジンアートの組み合わせは、それまで誰も作ったことのない機能と芸術性のあるボードを生み出していた。
私たちは旧市街のはずれに車をとめ、迷路のような雑多な通りを歩きながら地元のファストフードを歩きながら食べた。食が細いクリスに対し、豪食のロビンはまずはその土地のものを必ず一番に食べる。その土地に馴染み入るのがロビンのスタイルだ。
特にこの頃は、自分のルーツが中東にあると信じていたためアラブ系のメディテレーニアンフードは彼の食の中心にあった。ちなみに私自身はロビンキーガルはどこをどう切り取っても超典型的なドイツ系のアメリカ人だと信じて疑わない。
コーランが鳴り響く中、古いモスクに立ち寄った。モザイクが施されたタイルの床はひんやりとして足元から心を清めてくれる感じがした。
「3人でこんなところにいるなんて不思議だな」と話をしながら、近くのショッピングモールに立ち寄った。
その中にあった古びたゲームセンターの風船アトラクションのような中で二人は戯れた。
この旅が終わるころ、もう二度と元には戻ることがなくなるとは、この時は誰も予想していなかった。
何もしないのに1週間ほどあっという間に過ぎた。
とうとう出発の日を迎えた。
キャンプ用具を満載したトヨタの大型ランドクルーザーには料理を担当するベルベル人、雑用係を乗せカリームがハンドルを握った。その後ろにロビン、ギュエムが続いた。
数時間後、最初に立ち寄ったのはカサブランカにある大型スポーツ用品店だった。
ここで何をするのかと思っていたところ、隊長のカリームが言った。
「寝袋を買え!」
私はこの先に待ち受ける旅を想像し、行きそびれたヨーロッパの街巡りに対する想いを胸の中に閉じ込めた。
途中、ポイントに立ち寄ったり、小さな宿に宿泊しながら南下した。
アルガンの樹の丘を抜け、崖を下り、砂丘を走り、広く大西洋が見渡せる崖の上に到着した。
眼下に巨大な波が爆音を伴って砕けていた。
それはミルクコーヒーのような色をしていた。
(旅は続く)
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田中
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