藤沢店の田中です。
【ダイナミックエンデバー"SURFAR!"】最終章
崖から遠く見下ろす大西洋は遮るものもなく広大だった。
このミルク色に濁る広大な海は、私たちが普段見る青く透きとおった海のように心地よい安らぎを与えてくれるというよりは、なぜか重い気分をもたらせてくる。
遠い昔、ヨーロッパの人たちはこの先に何があるか知らなかった。知らなくても夢と希望を求めて沖に向かった。
ある者は西に向かい新大陸を発見し、ある者は南に下り、その南端の岬に喜望峰と名を付けた。
遠い昔の偉人とは比べ物にならないのは当然だが、私たちもまた旅の途中にいることを実感させられた。
沖合1キロほどにブレイクする巨大なうねりは、いったん態勢を整えて、私たちの足元のリーフにさく裂し、完璧なシェープを維持したまま足元左前方数百メートルまで続いていた。
「危険だな。俺とクリスが先に行って様子を見てくる」とロビンが言った。
よくよく足元を見ると、波がぶつかる崖の下にはいくつもの洞窟が白く深いスープを飲みこんでいた。かと思うと、まるで鯨が潮を吹きだすように、猛烈なしぶきを吐き出していた。
「あそこに吸い込まれたら死んじゃうな」とブラッドフォードが言った。
ロビンはこの旅のために作ったジャングルアシッドの9フィートを手に取った。「SURFAR」とハンドシルクスクリーンでラミネートされたセミガン系のシングルフィンだ。
「この1本があれば世界中の旅を楽しめる」というコンセプトだ。
クリスはジャングルRPG。今では戦争映画の中などでよく耳にする言葉だが、当時は私は意味がわからずクリスにたずねてみた。「ロケット・プロペラ・グレナード(手りゅう弾)の略でロケット推進式擲弾」という意味らしかった。
その名にふさわしく二人は岸壁から飛び降り、迫りくる波に突撃した。
サイズはオーバーヘッド、セットはダブル以上。それほど掘れていないがはるかかなたの低気圧から発せられたエネルギーはこのアフリカ西岸まで衰えることはなかった。
一瞬の気のゆるみが死を招くといっても過言ではないほどのシビアなコンディションだ。ましてや「Surf is Free」を標榜し、どの地においてもノーリーシュで挑む彼らは、いくら上級者とはいえ危険であることは変わりなかった。初めてのポイントに入るということの緊張感は私たちにも伝わってきた。
ファーストテイクオフはロビン。ダブルの波にレイト気味にテイクオフし、フェースをフリーフォールしながらフロントサイドのレールを斜面に入れた。その瞬間に発せられる驚異的なスピードは彼のボードの真骨頂だ。まるでショートボードのようなラウンドハウスカットバックを繰り返した後、チーターファイブの態勢で波の彼方に消えていった。
この波は崖下右奥からテイクオフし左前方のお気に向かってブレイクしている。
崖の上からカメラを向けると果てしなく遠ざかってしまう。周辺は瓦礫でアルガンという樹がぽつぽつと点在しいる。
同じ砂漠でもメキシコで見るサボテンの荒野とは趣が違う。羊が餌を食み、民族衣装を着た少女がロバに乗って追っている(驚くことにその手に携帯が握られていることもある。ながらドンキーだ)
日本を発ってすでに10日ほど経過しているのか、もうはっきりとした記憶はたどれないが、来てよかったと感じられた。
極寒のパリが原因で体調を崩しつつあった中村さんは「俺はこのために来たんだ」と言って、ボードを手に崖を降りて行った。
夕刻になりブラッドフォードがワイプアウトして、ボードが洞窟に吸い込まれた。自分のボードを探すブラッドフォードを見ていると彼自身が危険な状況にあることがわかった。
「ボードをあきらめてすぐに上がれ!危ないぞー」
その瞬間、行方不明だったボードが洞窟からしぶきになって噴出された。まさに粉々になって・・・
その夜、キャンプ地に到着した。
手慣れたスタッフが設営を始める。
50歳の手前だった私は「この年でテント生活か」と覚悟を決めていたが、見る見るうちに設営されたまるで映画のセットのようなテント群を見てその不安はなくなった。
4人ずつの宿泊用テント、シェフ専用のキッチンテント、そして30畳はあろうかというリビング、ダイニング用の大型テント。
テントの入り口にはフルーツが盛られ、銀製のティーポット。内部は絨毯が敷き詰められ、長テーブルの周りにはクッションが置かれていた。
「心配することはなかった。これなら来てよかった」とほっとした。
それから数日間、そのキャンプ地を拠点に前日のポイントに行ったり、他のポイントを目指した。テントの前には無人のレギュラーのビーチブレイクがあり、出発前や夕刻の食事前はカメラマンのペロさんや私もカメラを置き、サーフィンした。
最っとも隣の街もはるか遠くだ。灯りは私たちがテントに灯しているランプだけだ。
360度を星が覆いつくしていた。いや足元に広がるそれは360度以上だ。冬は一番星が多く見える季節だが、それを差し引いてもそれまでにこんなに多くの星を見たことはなかった。
一つ一つの星は輝き、まるで生き物のようだった。古代西洋の人達が星を見ながら名前を付けたり、物語を作ったことは想像するに易しかった。
1週間ほどたったが、初日ほどの波には当たっていなかった。
ストレスが溜まりつつあったロビンは隊長のカリームに拠点を変えることについて聞いていた。カリームが言った「来週、サイズアップする」と。すかさず「じゃあ日程を延長しよう」とロビンは言った。
私はサーフショップをしているとはいえ、彼らのように「日程はどうにでもなる」というわけではない。日本に帰ってお店に立たなければならないし、いろんなことに責任を負っている。
私は「俺は帰らなきゃならない」とロビンに伝え、ロビンもそれに納得した。
中村さんは体調を崩していたので、私と帰ることになった。
その後、クリスが言った。「俺も帰るよ」
それはロビンの撃針に触れた。
「なんで帰らなきゃならないんだ」
「サミーとクリスマスを過ごしたいんだ」
「この旅に俺たちはどれだけ犠牲を払い準備をしてきたと思ってるんだ。来週は波が来るんだぞ。今まで経験したことのないような波が。それなのにお前は彼女とデートしたいだけのために帰るっていうのか。お前は本当にサーファーか?」とまくしたてた。
それから顔を合わせるためにロビンはクリスを罵った。
クリスはただ下を向いていた。
時にロビンは下手に出て、クリスに取り入ろうとしたが、それも不発に終わった。
そうやって日数が過ぎた頃、クリスは私に言った。
「俺は帰ったらガトヘロイを辞めることにしたよ。もうロビンとは一緒にやれないんだ。わかるだろお前には。ずっと長く一緒だったから。帰ったらサミーと一緒にアパレルブランドを立ち上げるんだ。“パシフィックスペシフィック”っていうんだ。海からの特別なものって意味なんだ」と言った。クリスは旅の前からすでに決心していたようだ。
同じ日の夕方、夕陽を見に丘に登った時、フランス人のギュエムが近づいてきた。
「ロビンからフランスで一緒にガトヘロイをやらないかって誘われたんだ。もうカリフォルニアには戻るつもりはないらしい。俺にできるかなあ」とうれしさと不安が混じった表情で言った。
「大丈夫だよ。ロビンは才能にあふれてるんだから。本当はいい奴だし・・・・厳しい時もあるだろうけど、信じて大丈夫だよ。仲間を大切にするから」
12月1日、ロビンキーガルはアフリカ西海岸のテントの中で28歳になった。
郷土料理のタジンを囲みながらアラブ語、日本語、フランス語、イタリア語、英語でハッピーバースデイを歌って祝福した。
彼は長年の相棒を失いつつあったが、未来は決して暗くないと感じたはずだ。
翌日、私たちはキャンプ地を離れた。
次の週も波は上がらなかったらしい。
その後、ロビンはギュエムとともにフランスの南西部ギタリーに工場兼ショップを構えた。
クリスとサミーの“パシフィックスペシフィック”の出だしは好調だったが、数年後二人は別れ、クリスは現在ドラッグに侵されている・・・
(終わり)暇つぶしにお付き合いいただきありがとうございました。
ご興味がございましたら、「Cats in Africa "SURFAR!"」をご覧ください。
新年は1月8日にハーバー、アンヒンジド、マドルガーダのボードが入荷します。
また現在、店内にはアレックスノストのBMTも豊富にございます。
こちらの映像をご覧になり、ぜひBMTにもご興味を持っていただければ幸いです。
皆様のご来店、お問い合わせお待ちしております。
シーコング藤沢店
田中
/////////////////////////////////////////////////////////////////////////////