シーコング店長ブログ

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明日、渡米します!

藤沢店の田中です。


前回までのブログも書けず、またコスタリカの映像の編集もできていないのですが、、明日より9月6日まで再びカリフォルニアに行ってきます。


今回はロビンキーガルの元相棒クリスのお葬式のためと悲しい渡米になりますが、せっかく行くからには改めて皆に会って、しっかりと仕事をしてきたいと思います。

 

お葬式のためフランスへの帰国を送らせていたロビンはフランスでやむに已まれぬ事情のためすでにフランスに戻っています。

 

今年の2月より半年間の間、カリフォルニアにいたわけですが、約束していたボードのシェープも果たさず、相変わらず身勝手ぶりを発揮していますが、カリフォルニア滞在中は様々なことが降りかかった挙句、最後に日本流に言えば”竹馬の友”ともいえるクリスを亡くしたことが彼の精神を追い詰めたということかもしれません。

 

2000年、ウェーバーのチームライダーとして来日したロビンは期待以上の活躍で第1回のナルーロングボード選手権を制しました。

 

翌年、その活躍が認められて二度目の来日を果たしたロビンは、前年同様に年長のノアとの二人旅では退屈してしまうと考え、同じドヘイニービーチで育った幼馴染で2歳年下のクリスを伴ってきました。

 

左端がクリス、右端がロビンです

 

2年目ということで、勝手知ったるロビンはクリスを連れまわし、同時に典型的なアメリカンキッズらしい悪戯の限りを尽くし、私たちを疲労と怒りにもたらせました。

 

当時14歳のクリスはまるで少女のような見かけによらず、口癖は「お前死にたいのか?」とロビンにも負けずのやんちゃぶりで、ロビンも私たちの怒り心頭の様子を見て「俺じゃないんだ、クリスがやろうって言ったんだ」と言い訳ばかりしていたことを思い出します。

 

2011年頃までのガトヘロイのボードの中でアブストラクト、シルクスクリーンを用いてラミネートされたボードの多くはクリスの手によるものです(ロビンによるものも多くありますが)。

 

当時ブランドコンセプトとシェープ、表立ったプロモーションはロビンの得意とするところ、細かな製作面などの裏方の仕事はクリスが担当することが多く、まさに二人の共同作業によってクリーム、ガトヘロイは発展していきました。

 

その間には、一時的に決別したりすることも何度かありましたが、常に心の底ではロビンはクリスを頼りにしていたところがあり、私自身も時がたつにつれクリスの存在感の大きさを感じることとなりました。

 

初めてのクリスとの二人旅はメキシコのラパスでした。

 

 

スコーピオンベイに住むマットハワードからTシャツ用の原画を買取るため、直前に風邪を引いたロビンを残し二人で飛行機を乗り継いで行きました。

 

「マットの目を直接見るなよ。許可なく写真も撮っちゃだめだ。できるだけ「ノー」とは言わないようにして、機嫌を損なわないようにしろよ」というロビンのアドバイスを胸に刻んで、ラパスの異様なホテルでマットとブリタニーに対面し、原画を手に入れることに成功しました。

 

それ以来クリストは3度、スコーピオンベイにサーフィンをしに行きました。今のように撮影するためではなく完全にプライベートのサーフトリップだったので、私の大変ないい想い出になっています。

 

またアフリカに渡る直前に、パリのシャルルドゴール空港で待ち合わせをしたこともあります。


2人で真冬のパリの街を歩き、ベルサイユ宮殿に観光にも行きました。


その旅がロビン、クリスとの最後の旅になるとはつゆ知らず、パリからまだ見ぬアフリカに期待と夢を乗せて飛び立ちました。

 


日本で行った「スーペリアシングス」、「フリーカウェイブショー」の他、サンタアナアートセンターでの「スレイブオブスープ」、「ラッシュライフ」、そしてサンタモニカの飛行場での「インスピレーション」など、何度もイベントやショーを裏方として一緒に支えました。

 

 

 

 

 

 

 





あくまでも主役はロビンキーガル。目立ちたがり屋で自分本位の多いアメリカ人において、常に一歩引いて脇に立つ彼の人間性にとても共感しました。


「いつかこの日が来るだろうな」と覚悟はしていましたが、一か月近くを過ぎた今でもやはり喪失感が募ります。


22日はクリスが育ったドヘイニービーチにてパドルアウトがアレックスノスト主催のもと催されます。23年間の友情への感謝をささげるために行ってきます。

 

クリスとの想い出

 

シーコング
田中