シーコング店長ブログ

シーコング各店より毎日お得な情報をお届けいたします。


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以前にも書いたどうでもいい古い話ですが・・・

藤沢店の田中です。

 

何か皆さんに楽しんでいただけることはないかなと古い写真を見ていたのですが、ひょんなことから過去のブログに書いた記事を読んでいて、改めていろんなことがあったなあと、一人思い出に浸っていました。

 

シーコングを初めたのは1998年の6月10日なので今から約22年前になります。

 

最初はカリフォルニアのローカルブランドから始まり、翌年からデューイウェーバー、そして2000年からはハーバーの取扱を開始し、当分の間はその2つのブランドのボードのみを販売していました。

 

現在のようにブランドに分散していなかったので、多いときには1回の入荷で100本もウェーバーが届いたりしていました。

 

その後、ウェーバーのライダーをクビになったロビンの紹介によって、彼がライダーとなったタイラーハジキャン、ダノーのボードを取り扱うようになり、その後、マットハワード、ジョンペック、ジャレッドメル、アレックスノスト、エルモア、そして昨年からデーンピーターソンのボードも加わるようになりました。

 

22年前では考えられなかった、自分ながらに“世界最高のラインナップ”であると自負しています。

 

そのラインナップの形成に最も貢献してくれたのは他でもなく、現在メキシコに逃避中のロビンキーガルです。

 

過去のブログから彼にまつわる逸話を2つ取り上げさせていただきましたので、まだご覧になったことのない方はぜひ暇つぶしにお読みください。

 

【ロビンとの出会いから】2014年5月31日

 

昨日から火曜日まで大阪店に勤務している田中です。


大阪店に来てみるとお客様からいただいた雑誌が棚に並べられていました。数年分の「NALU」、「オンザボード」、「Blue」ですが、「NALU」に至っては1995年のものからありました。

 

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結構いっぱい表紙になっていました。

 


私は以前から一冊の「NALU」を探していたのですが、やっとここで見つけることができました。


それがこれです。

 

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ロビンが2000年の「第1回ナルーサーフミート」に出場した時の記事です。

そして現在、世界を代表するシェーパーであり、ロングボーダーであるロビンが当時よりすでにずば抜けた存在であったことが伺えます。

 


小さいですが、写真の下にはこう書かれています。

「カリフォルニアから参加のロビー・キーガルは若干16歳!卓越したボードさばきで“ノーズライディング・サバイバル”、“ワンボード・チャレンジ”の10ftクラスで、2つのタイトルをつかんだ」


そしてその時の大会結果がこのとおりです。

 

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そうです彼は突然来日し、歯も磨かないまま大会に出場し、出場した2種目でダントツの成績で優勝したのです。当時はまだ私より身長も低かったのですが・・・・

この辺りの成り行きは「サーファーズジャーナル」にも書かれていますが、写真を見ていると当時のことが懐かしく思い出されます。


そこでその「サーファーズジャーナル」のロビンの特集にあたって、「私とロビンはどういう関係なんだ?」というインタビューに対し、私が答えたものがこちらです。ちょっと長くなりますが・・・・

 

(ロビンとの関係について)

初めてロビーと会ったのは1999年の9月。前年にサーフショップを始めた私はプロモーションの一環として私のショップ、ボードが雑誌に取り上げられる方法を模索していた。ちょうど雑誌「NALU」が第1回のコンテストを開催することを知り、取引先である Dewey Weber surfboards に大会で活躍できるサーファーを派遣して欲しいと依頼した。

そして当時15歳のロビーと成田空港で初めて会った。当時は今よりもずっと小柄であったが早口で一方的にしゃべりまくる姿は同じだった。

ロビーは期待に応えエントリーしたすべての種目に優勝し、雑誌の1面を飾った。
典型的なカリフォルニアのキッズであるロビーと彼の友人は日本でいたずらの限りを尽くし、私を相当に苛立たせたが、今に通じる私のお店の発展が彼のこの活躍に始まったことは間違いない。素晴らしい出会いの始まりだった。


その後、彼は Tyler、Dano のチームライダーとなり、そして自らのブランド Creme を始めた。


彼は多くの人からクレイジーと言われる。私は彼のどこがクレイジーなのかということをずっと考えてきた。


彼は確かにいたずらが好きで、粗暴で、酒に飲まれることも多く、そして傍若無人である。しかしその多くは一般的なアメリカ人に共通している。


私は彼のクレージーさはやりたいことに突き進む時に周囲を顧みないことにあると思う。時に言い出したらあとに引かず、周りの声に耳を貸さず、周囲の友人を困惑させる。しかしそれは子供のような純粋な気持ちがそうさせているのではなく、実は周囲を観察し、歴史を振り返り、人間関係を見極めながら行われている。だから同世代の人間から見ると、彼は自分勝手で、人の意見を聞かず、友人関係もぶち壊すクレイジーなやつと思われる。しかし実際にはレジェンドと呼ばれる多くのサーファーは彼の個性を愛し、ときには一緒に仕事をしようとする。彼はそういった面でセルフプロモーションに長けている。彼のクレージーは実は計算されているのだ。

もうひとつ彼のクレイジーなところは、綿密なプロモーション、計画にもかかわらず、常に生活が破綻していることあである。

彼の視点が一般的な生活を送ること、「仕事が終わるとソファーに座りテレビを観ながらビールを一杯飲み、ガールフレンドと談笑し、週末の午後はショッピングをしディナーをする」にないことは確かだ。

彼にとってはどうすればもっといいボードを作れるかを考えることが重要で、リビングルームもベッドルームも家族との団欒もその範疇にないのだ。

60、70年代はそういったサーファーも珍しくなかったかもしれないが、今も彼は工場の片隅のソファー、またはバンの荷台で睡眠を取る。お金がなければボードを作ればいいのに、その作ったボードを自分でテストライディングしないと気が済まない。彼にとってはボードを売ることよりもボードを作ることのほうが重要なのだ。

だから、そんな彼の自分勝手な振る舞いに付き合いきれないと、友人の多くが彼の元を去っていった。


私も彼の才能を信じて一緒にビジネスを始めたのではない。

彼がクリームを始めた時点では少なくともそうであった。どちらかというと泥沼に足を踏み込んでしまったという感じで、前払いしたお金を回収することが目的であった。約束を守らない彼を訪ねて何度もカリフォルニアに足を運んだ。

うまくいきかけたと思ったら、すぐに足元をすくわれ元の最悪の事態に戻ったことも何度もあった。

しかし彼は逃げることはなかった。いつも壮大なプランを語り、これからはうまくいくからと私を説得した。

いつも信じていたわけではないが、彼の情熱は本物だと感じ、私は彼にボードをオーダーし続けた。

私は芸術的才能もなければ、サーフィンが上手いわけでもない。しかし彼の作り出したボードがほかのブランドのボードとまったく違ったものであることは容易にわかった。

一つ一つのディテールに気持ちが込められているのがわかった。そしてボードを手にすると指先に痺れるような感覚が伝わってきた。これこそ私が彼のボードを信じる理由だ。彼のボードには魂がこもっていると感じ取ることができた。


だから魂を大事にする日本では彼の人気は絶大だ。
しかも誰よりも多くの回数を来日し、日本のサーフィン環境をよく知っている。カスタマーには常にフレンドリーで、そして決して飽きさせることなく芸術的なボードを作り上げる。今や彼のボードの販売数は年間500本を超える。

ときに彼のボードは先に進みすぎているため、日本のユーザーに理解されない時がある。それでも彼は平気だ。「カリフォルニアだって同じだよ。理解している奴は少ないんだ」

 

2010年、彼は「Freak Waive」というプロジェクトをたち上げ、カリフォルニア、ハワイ、日本、オーストラリアを周り、その年の秋にはヨーロッパに渡りサーフボードを作った。

そして翌年にはヨーロッパへの移住の準備を進めながら、年末に「ダイナミックエンデバー」という新しいプロジェクトをたち上げ、世界各国の友人たちと最果てのモロッコに渡った。いい波に乗り、いいボードを作るために。

「いいボードを作るためにはサーファーとして優れていなければならない。たくさんサーフィンをしなければいけないんだ。それもコンディションの違ういろいろな場所で。そして経験を積んでいいボードを作るんだ」

とにかく彼は新天地を求めていた。ぬるま湯に使ったカリフォルニアの生活には満足できなかった。


彼は世界中を旅し、そして、かけがえのないファミリーと言える友人を手に入れた。


現在、彼を取り巻く環境は飛躍的に良くなっている。彼の視線はグローバルに広がり、世界中に散らばる彼の仲間が、ボードを作り、洋服を作り、そして販売する。一緒に旅をし、次の旅の計画を立てる。

このチームワークが有る限り、彼の進化はサーフボードだけにとどまらないだろう。


世界各地で彼と別れる日、彼は去り際にいつもありがとうという。「お前のおかげだ」と。

しかし私は「それはお互い様だ」という。

私がアレックス・ノスト、マテオ&ブリタニー、ダノー、ジャレッド、CJネルソン、スティーブ・クリーブランド、トロイ、ピックル、タイラー、そしてその他の多くの友人と知り合えたのはすべてロビーのおかげだ。私のビジネスも大きく支えらている。


空港で「もう少しいろよ」と腕を引っ張りながら言われると、私は別れを惜しみ、そして今までのことを振り返り、涙が出そうになることがある。
一緒にいたいのは山々だけどそれはできない。彼の顔を直視しないまま「じゃあな」と言って別れる。それが私たちの関係だ。

(以上)

 

 

【ストレージパーティ】2014年11月10日

 

暗闇の先から突然目がくらむほどのサーチライトとショットガンを構えた7人のSWAP隊員が怒号とともに迫ってきた。


数分後、私達4人は映画「ユージュアルサスペクツ」のパッケージ写真のように後ろ手に手錠をはめられたまま壁の前に整列し写真撮影された。

 

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2010年2月15日夕方、カリフォルニア州カピストラーノビーチのロビン・キーガルのファクトリー。

 

そのときロビンはカリフォルニアのサーフカルチャーに嫌気がさし、自らの方向性を模索するためハワイから日本、オーストラリア、ヨーロッパと巡るために「FREAK WAIVE」という数ヶ月に及ぶ長期間のツアー立ち上げ、その出発を翌朝にひかえていた。


結局、ロビンはこの旅中のオーストラリアでボブ・マクタビッシュ、ラスティ・ミラーらに会い、「ショートボードレボリューション」について当の本人達から直接薫陶を受け、自らの進むべき道を見つけ出した。そしてその究極のプロジェクトを完成させるための居住の地を見つけ出し、翌年にフランスへと旅立った。

また同行したエバンはオーストラリアで最愛の彼女イエイニーとめぐりあい、同じく翌年にオーストラリアへ移住を果たすこととなった。


そういった意味でその日は私達を含めた一同がカリフォルニアで会した最後の時であり、その後に続くガトヘロイの大躍進、大転換の序章であった。


しかし、私達は当然その行く末を知らず、ましてやその夜、私達に降りかかった災難のことは知る良しもなかった。


当事者達がその日のことを「ストレージ(パーティ)」と呼んで懐かしんでいるその顛末とは・・・


午後5時になってもロビンは探し物をしていた。ロビンだけでなくカリフォルニアのサーファー達は本当によく物をなくす。パスポート、エアチケット、財布、鍵・・・カリフォルニアサーフカルチャー=ルーザーズカルチャーとは物をなくすのが得意な者たちを指すのではないかと思うほど、どこかに出かけるときには誰かが必ず、必ずパニックになっている。


ロビンが探していたのは8ミリカメラの充電器。長期間のトリップの必需品であることは間違いない。ファクトリー兼住居の中には所狭しと物が置かれている。サーフボードの製造に関するものはもちろん、Tシャツをシルクスクリーンするための装置と材料、ウェットスーツのミシン、収集している古いジャズレコード、創刊号からすべて揃えられているサーファーマガジン、ピアノに古い地球儀、歴史に関する書物、印象派のアート作品集、そしてビールの空き瓶などが・・・

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これはきれいに片付けられたときのファクトリー

 

その中から小さな充電器を探すことは並大抵のことではなかったがさすがに3人がかり(ロビン、私、現在カリフォルニア在住の前篠崎店店長の藤屋)で2時間もかき回した頃には、この場所にそれがないことはうすうす感じていた。


突然、ロビンが「たぶん倉庫だな」と言った。


ここで言う“倉庫”とはちょっと郊外にあるレンタルスペースのようなもので、セキュリティのかかった門の先に何軒ものアパートのような建物があり、その2階構造になったアパートの中の廊下に沿っていくつものドアがありそれぞれそのドアの中に4畳半くらいのスペースがある。入り口、階段を挟んだ両方向に約30メートルほどの廊下があり、それぞれ20数戸のドア付の部屋が並んでいる。

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中央の建物が倉庫


ちょうどそのとき二人の友人が現れた。


一人はサンクレメンテにある日本人御用達のサーフショップ「アイコンズ」の店長(当時)のクリス・クロウ。そしてもう一人はロビンと一緒に旅立つエバン。

 

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左端がエバン、右端がクリス


そこでクリスが「じゃあ、俺が倉庫に行って探してきてやるよ」と言った。


パニック寸前のロビンと一緒にいるのは息苦しいと感じたエバン、私、そして藤屋もすかさず「俺も、俺も」と続き、4人で車に乗り込んだ。


しかし倉庫に着いたときにはすでに閉門時間の8時を少し回っていたためゲートには鍵がかけられている。


少し躊躇する私の意をよそに「中の鍵は持ってるから、このまま行こう」とクリスは1mくらいの高さの門をまたいで敷地の中に入って行き、私達もそれに続いた。

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正面が入り口ゲート


目当ての建物にも鍵はかかっていたが、持参した鍵でドアを開け2階への階段を駆け上った左側の奥のロビンが借りているスペースのドアの前に私達は難なく到着した。


ドアを開けるとそのスペースからのあふれ出さんばかりの荷物の山に私達は唖然としたが、とにかく探し出さなければならなかった。体力自慢の藤屋が室内に入り込み、残った私たち3人は火事場のバケツリレーのように中から順にガラクタを運び出していた。


5分後「カシャッ」という音とともにすべてのライト消えた。


すると何度もここに来たことがあるエバンが「大丈夫、スィッチの場所は知っているから」と言いながら走って建物の反対側の奥に暗闇の中を消えていった。


明るくなったことに安堵し、充電器探しを再開したほんの数分後、再びすべてのライトが消され一瞬の静寂が訪れた。


そして私たちが会話をする間もなく、突然怒号とともに静寂はかき消された。

 

「DON'T MOVE! LEI DOWN ON THE GROUND! WE SHOOT YOU!(動くな!床に伏せろ!撃つぞ!)」


廊下の先端のほう、怒号の先にはすでに暗闇から一変し強烈に眩しく思考までも停止させるようなサーチライトが発せられていた。


怒号と激光が急速に近づいてくる。


「DON'T MOVE! DON'T MOVE!」(動くな!動くな!)

「LEI DOWN ON THE GROUND!」(床に伏せろ!)

「WE SHOOT YOU! WE SHOOT YOU!」(撃つぞ!撃つぞ!)

 

私は眩い光の中、少しずつ状況を理解してきた・・・私達は窃盗団と思われているようだ。(実際、この倉庫には頻繁にメキシコ系の窃盗団が押し入り銃撃戦を繰り広げたことが数回あったと後から聞いた)塀を乗り越えたことでセキュリティが感知し、通報されたのだろう。


すでに私の横で床に伏せていたクリスとエバンが泣き叫んでいた。私の想像をよそに状況はかなり深刻のようだ。


「トシ、頼むから床に伏せてくれ。冗談じゃないんだ。あいつら本当に撃ってくるぞ・・・頼むから伏せてくれ・・・」


私は両手を挙げながらゆっくりと床に伏せた。


同時に頑丈そうなヘルメットの頭部にサーチライト、手にはショットガンの7人のSWAT(特殊部隊警察官)に頭上を囲まれた。

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依然として彼等は大声で叫んでいた。


「撃つぞ!撃つぞ!後ろに手を回せ!」


私達はわき腹を蹴られながら伏せた体勢で両手を後ろに回した。そして私たち3人の手には固く手錠がかけられた。

 


一人ドアの奥に潜んでいた藤屋は思案した。

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「もし動いたら、物音をたてたら・・・撃たれるかもしれない」


彼は状況を分析し(普段は状況分析は苦手であったが)、先に声を発することにした。


彼には6年間のアメリカ居住暦があり、英語は完璧であった。警官を納得させられる一言を発することも可能だった。

しかし半ばパニックに陥っていた藤屋は(ともかく、ほんの少しでも物音をたてた瞬間にショットガンが放たれる)、適切な言葉も失っていた。


「ワンモアーヒアー(もう一人ここにいます)!」

床に伏せていた私は噴出しそうになったが必死にこらえていた。何しろリアルな展開だ。


SWATはショットガンの安全装置を乱暴にはずし全員がドアの方向に銃口を向けた。


「ワンモアー、ワンモアー・・・」


「OK!手の平を見せろ」

藤屋の片手がドアの端から除く。

「もうひとつの手も見せろ」

両手の手のひらだけがドアから出てきた。顔と胴体はまだだ。

私はすでに徐々にではあるが、この状況がシリアスな展開にならないことを確信していた。

そのため後ろ手に手錠をかせられうつ伏せの状態でありながら、視界に入った藤屋の両手のひらを見て少し噴き出してしまった。

「よし、そのまま出て来い。手を動かすな。動いたら撃つぞ!」

 

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そして私達4人は壁を背に整列させられ写真撮影の後、一人ずつ別々にパトカーに乗せられた。


「何をしてたんだ?」

「カメラの充電器を探してました。」

「住まいは?」

「日本です。」

「おい、お前たちはわざわざ日本から来て、塀を乗り越え、カメラの充電器を探してたって言うのか?」

「はい、そのとおりです。でも鍵は持っていました。」

 

 (以上)

  

 

新型コロナウイルスの一日も早い収束を願って!

 

 

シーコング藤沢店
田中

 

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