大阪店の中野です。
早いもので、リッチハーバーがこの世を去ってから昨日で2年が過ぎました!!
数多の数ほどいるサーファー、そしてシェイパーの中でもサーフィン業界で後世に名を残す人は一体何人いるのでしょうか?
【2023年現在、その製造本数は33000本を超えました。】
リッチハーバーは間違いなく、ただ年をとっているだけで呼ばれている"謎のレジェンド"ではなく、真の功績を讃えられた"本物のレジェンド"の一人です。
1959年に両親のガレージで自身初のサーフボードを作りましたが、全く機能性のないボードが出来上がってしまいました。これにもめげず2本目の製作に取り組みます。やがて友人がリッチハーバーに注文するようになって以降、これまでに星の数ほどのサーフボードを削ってきました。
※リッチハーバーはこれまでに小まめにシリアルナンバーをつけていますが、そのナンバーは現在#33000を超えています。
創業から60年以上が経過しても尚、昔と変わらないシールビーチにあるサーフボード製造工場兼サーフショップは、歴史ある場所として現在も多くのローカルサーファーに愛されている大切な場所です。
高校を中退してまで開いたサーフショップへの思いは絶大で、リッチーの計算されつくしたシェイプ技術は元より、毎度のようにサーフィン雑誌へ広告を打ちだし、有名なサーファーを使ってプロモーションを行いました。
彼らのフィードバックから得た情報でさらに高性能なサーフボードを作り、ブランディングも積極的に行ったことから徐々に人が集まるようになりました。
1964年にはリッチーチュが、"バナナモデル"に乗りUSSAチャンピオンになり、1966年のワールドチャンピオンシップには"チーターモデル"に乗ったジャックサザーランドが2位、スティーブビグラーが4位となりました。
また、1965年のUSチャンピオンのマークマーティンソンとは"トラッセルスペシャル"を共同で開発したり、デイルベルジー、ディックブリューワー、ロバートオーガストなどがハーバーサーフショップでともに仕事をすることになりました。
【数あるハーバーブランドの中でも後世に残す3大モデルとは?】
現在も残っている多くの老舗ブランドがそうであるように、激動の1960年代を生き、その後のショートボードレボリューションを経験しても尚生き残っているのは奇跡に近いのかもしれません。
それに加えてハーバーは他のブランドのように決して身売りをすることはなく、同じファミリーで経営を続けているのは本当の奇跡かもしれません。
時代時代に合わせたニーズに応えるように様々なボードを作ってきたリッチハーバーも彼自身が本当に後世に残したいと考えているのは3つのモデルのようです。
はい、トラッセルスペシャル、バナナ、そしてチーターです。
あらゆるクラシック関連のサーフ雑誌を拝見しても、必ずどれかのボードが載っているほど真に評価されている歴史的な3大モデルです。
当時のビンテージ物はかなりの高額で取引されていますが、現行モデルは当時とは若干の変更点があるとはいえども、当時と変わらない雰囲気を体感できるサーフボードです。
【トラッセルスペシャルとは?】
Trestle Special
「そのボードに“トラッセルスペシャル”と名付けたのは簡単な理由だった・・・」
1965当時、ハーバーサーフチームのメンバーだったマークマーティンソンはサンクレメンテの南に位置するカリフォルニア屈指のポイントブレイクのローワートラッセルズではひときわ際立ったライディングで評判でした。
あまりの上手さに彼のパフォーマンスを見るためにサーファーたちは海から上がってくるほどで、私は当時それを何度も目にしていました。
そこで私はマークのためにトラッセル用の特別なボードをデザインすることにしました。
ディーンエリオット、マイクマーシャル、そして私の3人がその新しいボードを開発することにしましたが、最終的にはマイクマーシャルにシェープを任せることにしました。
なぜならマイクとマークは以前、他のプロジェクトで一緒に仕事をして大成功を収めており、サーファーとシェーパーのコンビとしてはすでに絶好調だったからです。
彼らによって新しくデザインされたボードは、ノーズが細く、当時の平均的なサーフボードよりもテールが絞られたようなアウトラインになっていました。
これらの特徴によってボードのスピードは増し、マークマーティンソンのパワフルなライディングをさらに引き立てることになりました。
そしてこのボードに試しに乗ってみたサーファーのほとんどがこのボードを欲しがることになったのです。
翌年の冬、マウイ島へ行くことになった時、そのボードは修理に出され、当時の習慣によってカラーリングが変更されました。
それは写真映えがいいように、真っ赤なソリッドピグメントに変更されたのです。
このボードの評判は口コミで広がり、1966年、正式にハーバーサーフボードのラインナップに加えられました。
しかし私は機能的でエレガントなラインを強調したかったので真っ赤ではなく、シンプルなクリアのボランクロス、レッドウッドのトリプルストリンガー、そしてソリッドイエローのフィンを採用することに決めました。
ロゴのデザインは、ハープアルバートのアルバムジャケットから気に入ったフォントを採用したもので、これは現在にも引き継がれているのです。
【バナナとは?】
BANANA
1963年の冬、ローカルサーファーである”リッチ・チュー”は私から新しいボードのオーダーをしました。彼は私がデニーブエールに作ったボードを非常に気に入り、彼もそのボードをオーダーすることに決めました。
このプロジェクトは最初かなりラフなスタートを切りました。なぜなら受け取ったウォーカーフォームはたくさんのロッカーが付いていたためです。ロッカーは端から見たノーズからテールまでの曲線率です。
私は心配しましたが、このロッカーはボードのターンをより良いものにするのではないかと考えました。
そして私はボードをシェイプし、イエローカラーにブラックバンドをつけて”リッチ・チュー”の反応を待ちました。
このボードは皆がコメントしているように異質に見え、まるで大きなバナナが水の中を浮いているかのようだと言っています。
これはハーバーサーフボードシリアルナンバー”664”番のボードのことで、のちにバナナモデルと呼ばれ、リッチチューが愛してやまないボードです。
彼は本当にこのボードを愛しているので、このボードに修理が必要なダメージを負ってしまいましたが、彼は新しいボードを手に入れるよりも修理をして、リペイントをすることを望みました。
リッチ・チューが新たにデザインしたものは、先進的な黒と白のストライプに17インチのマスタードイエローのバンドを施したものとなりました。
このカラーが現在のラインナップの中でもひときわ際立っていてカラースキームとなっています。
チューはこのバナナモデルに乗り初めてのU.S.S.Aサーキットにおいて絶大な成功を収めました。リッチチューは初代のU.S.S.Aのチャンピオンとなり、彼と彼のバナナモデルはとても有名なモデルとなりました
【チーターとは?】
CHEATER
"まるで"チート行為"(不正行為)でも行っているかのように、いともたやすくノーズライディングができるボードを私たちは敬意を込めて”チーター”と名付けました" by リッチ・ハーバー
ハーバーサーフチームのメンバーである"スティーブビグラー"は、南カリフォルニア(サンディエゴからサンタバーバラ)を軸にサーフィンをしていました。
そんなある日、リンコンでのサーフィンの後、彼は私(リッチ・ハーバー)のシェイピングルームにやって来て、レニー・イェーターが作った”スプーンモデル”について熱く語り続けました。
彼はその日、正にリンコンでその”スプーン”モデルを見たのです。
彼は”スプーン”モデルがいかに海の中で機能的であったかを私に説明しましたが、私は”スプーン”の代わりに”ステップデッキ”を提案しました。
このプロトタイプが後に”チーター”となり、1960年代のハーバーサーフボードのベストセラーとなりました。
まるで"チート行為"(不正行為)でも行っているかのように、いともたやすくノーズライディングができるボードを私たちは敬意を込めて”チーター”と名付けました
”チーター”モデルは、サーファーがノーズに立った瞬間、ボードの先端がしなるステップデッキとなっており、瞬間的にスピードが増幅されると同時に特別な”ティップタイム”を味わえるボードです。
スティーブビグラーはサンディエゴで開催された1966年サーフィンワールドチャンピオンシップで、このチーターを駆り出し”4位”という好成績を収めました。
また同コンテストにおいてジョックサザーランドは同じチーターに乗り”2位”というこれまた好成績を収めました。
彼らのチーターは2本とも10フィート近くあり、ノーズライディングに最も適した長さでもありました。
さらに同コンテストに出場し優勝したオーストラリアのナットヤングが使用したボードは9フィート近くで、彼のボードは軽量でターンを得意としていました。
この革新的な出来事はそれまでのサーフィン界の常識を覆し、のちのショートボードレボリューションの幕開けとなりました。
リッチハーバーが後世に残すべき3大ボード。
当時とは少しアップデートされているものの、現在もシーコングで入手可能なリアルクラシックボードです。
こういう時代だからこそあらためて真の価値を追い求めるのもいいのではないでしょうか?
どうぞよろしくお願いいたします。