藤沢店の田中です。
大変残念な知らせがカリフォルニアより届きました。
2000年以来、シーコングの主要パートナーであったハーバーサーフボードのリッチハーバーが今朝、亡くなりました。
ここ数年、持病であった首の容態が悪く、手術を繰り返し、自宅での療養を余儀なくされていましたが、2年前の「60周年記念パーティ」では、車椅子ながら元気な姿で懐かしい友人と会話を交わしていたのを思い出されます。
シーコングは1998年の6月に創業しましたが、2000年頃、ハーバーより光栄にも「代理店にならないか」というオファーがあり、迷うことなく手を挙げました。
1959年にハーバーサーフボードを創設したリッチハーバーが「バナナ」、「トラッセルスペシャル」、「チーター」などサーフボード史上に燦然と輝く名モデルを創り出したこと、そして創業以来一貫して同じ場所でシェープ、ショップを続けてきた唯一のブランドであることは有名ですが、それ以外にもたくさんの功績を残しています。
1960年代になって爆発的な人気となったサーフィンは、それに伴ってたくさんのサーフボードブランドを生み出すこととなりました。
当時の人気はまさに「何でも売れる」に等しかったため、欲にかられたブランドが(中にはビッグブランドも多数含まれていたのですが)粗悪品を大量に作り販売していました。
その状況に危惧を感じたリッチはサーフボードの品質の向上に力を注ぐこととなりました。
そして注目したのが「プラグ」という型を作り、そこに原料のウレタンフォームの素材を流し込むことによってロッカーや大まかなアウトラインがプリシェープされたものを作り、シェーパーはそれを仕上げることによってオリジナルの品質の高いシェープボードとほぼ同じものを作ることができるという方法を考え出しました。
・・・現在では「ハンドシェープ」がより価値の高いものとして語られがちですが、リッチは均一、同質を重要視しマシンシェープのほうがそれを勝ると考えたのです。もちろんこれは当時の爆発的な人気に生産が追い付かなったことが一番の原因であるのですが・・・
そのリッチハーバーの考えを具現化したのが、あの有名なクラークフォームの創業者であるゴードンクラークです。
クラークフォーム社は現在は廃業していますが、リッチはーばと二人三脚で、型撮りしたフォームを非常に細かいサイズ、圧縮比率の差による重量と強度の異なるプリシェープされたフォームをシェーパーに提供することによって現在のサーフボードインダストリーの基礎を作りました。彼の先見の明が現在のサーフボードインダストリーの礎となっているのです。
・・・これによってハーバーサーフボードは当時からのサーフボードのすべての型を持っているために、当時と寸分たがわぬボードを作ることができる非常にまれなブランドとなっているのです・・・
ハーバーサーフボードはそのために“信頼”できるブランドとして確立され、上述のようにシールビーチというカリフォルニアではそれほどフォーカスされることのない場所であるにもかかわらず、60年以上も地元のみならずサーファーたちに愛されるブランドとなったのです。
2005年冬、そのクラークフォーム社はある朝突然に、何の前触れもなくその事業を停止しました。俗にいう「クラークフォームショック」です。
クラークフォームの創り出したそのシステムに頼りきりだったシェーパー達は途方に暮れることとなりました。
クラークフォームは非常に細かなサイズのバリエーション、ロッカー、アウトライン、素材をカタログ化し、シェーパーはそれを注文することで、シェープ時間を1/3~1/10のほどにまでに縮めることができたのです。つまりシェーパー達はクラークフォームに希望するカタログの品番を伝えるだけで、同じ時間で10倍のサーフボードを作ることができたのです。
それになりきっていた多くのシェーパー達は知らず知らずのうちに自分たちのシェーピングスキルが落ちていることに気づかなかったのです。
「いまさらプリシェープされていないフォームで一からシェープするなんて」、「大体そのフォームが手に入らないじゃないか」・・・カリフォルニアのサーフィン業界はロングとかショートのの垣根を越えて騒然となったのです。
当時、私も一大事と感じ、すぐにカリフォルニアに向かいました。ビーチではシェーパーやサーファーたちが悲観に暮れ、先々の不安を口にしていました。
「これからどうすればいいのか?」という多くのシェーパーやラミネート工場主らの不安を解決するために、2005年12月17日、オレンジカウンティの「Cerritos College」において『So. Cal Surfboard Construction Forum』が開催されました。
そしてその壇上にいたのがリッチハーバーです。日頃はいがみ合ったりすることが多いサーフィン業界において、リッチハーバーの実直な性格とサーフボードに対する知識は彼らの頼みの綱だったのです。
壇上でリッチは「長い年月の間には困難は何度も訪れる。しかしそれは毎回必ず解決されるものだ」という精神的な話から始め、ウレタンフォーム変わるスタイロフォームの素材特性や加工の仕方について伝授し大きな喝さいを得ました。サーフインダストリーで働く者たちに希望を与えたのです。
それからもリッチは変わることなく頑固なまでにサーフボードづくりにこだわっていました。
その頑固さな逸話ですが・・・
シーコングがハーバーサーフボードの取り扱いを始めて間もないころ、記念としてあるモデルの復刻版を販売することが決まりました。
候補となったのが1960年代“ステップデッキの王様”として知られた『チーター』でした。
ボードのデッキ側のノーズ部分が薄く削り取られたことによってボードは強烈にしなりを生じノーズライディングの性能を向上させました。
多くの方は今でもノーズライディングはクラシックスタイルの典型的なものと思われがちですが、当時のボードはロッカーが非常に少なかったために、デッキ上の一か所においてボードをコントロールすることはとても困難でした。
そのためにサーファーはボードの上を前に後ろに動き回っていたのです。ハングテンなどはその中のごく限られた条件の中で可能だったのです。
『チーター』はステップデッキに加え、ロッカーのなかったボトム面のテールをエッグシェープと言われるように球状の曲面にシェープされ、現在のテールロッカーに似た働きを可能にしたことによって、後世に渡って歴史的な名作と称えられるようになりました。
1990年代の後半に枻出版から発売された「NALU」の別冊号「Surf ’60s style」において、このボード(真っ赤なチーター)だけが唯一見開きを飾っていたことも私たちの期待に大きく拍車をかけました。
「じゃ、記念に『チーター』を復活させよう」と話は決まりましたが、リッチは突然に「ちょっと待って」と言いました。
リッチは「当時のチーターはフォームTバンドのダブルストリンガーによってノーズがストリンガー沿いに割れてくる欠陥があったんだ」、「だから同じストリンガーはやめた方がいい。そうなると同じ名前を付けることはできない。モデル名は「チーターII」にしよう」と言い出したのです。
父親の仕事を助けていた長女のメリッサは「同じボードを作ればみんなハッピーなのに、この石頭親父」と陰で言っていましたがリッチ自身は素知らぬ素振りで「チーターII」の製作に取り掛かったのです。
その後、同じことは何度も起こりました。封印されていた「トラッセルスペシャル」を復刻させるときには、「あのボードはクラークフォームと開発したもんだ。だからクラークフォームが存在しない今となってはそれを同じ名前で呼ぶことはできない。『TS』としよう」と。
シーコングの20周年記念のために、ティントカラーの『トラッセルスペシャル』を作ってほしい(カラーのトラッセルスペシャルは現シェーパーのスティーブファーエルが所有している1本のみしか存在しません)という要望にも、「それだけはできない」と頑なに首を振り、
自らの60周年を記念に再び封印されていた「チーター」をリメイクするときも「ストリンガーの問題は解決できたが、パドリング時にステップデッキ部分の境目に違和感があったとたくさんの人が言っていたので、そこを改良しよう」と言い出し、『チーター60』というモデルが生まれました。
そんな数々の想い出も今日を最後に更新されることはなくなりました。
本当に悲しいことですが、私たちはこれからも残されたハーバーファミリーと協力してこの偉大なブランドを継承していくことに役に立っていきたいと考えています。
この場をお借りしまして、"Real Legend" リッチハーバーのご冥福をお祈りさせていただきます。
シーコング
田中
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