藤沢店の田中です。
(よろしければ、暇つぶしにお読みください)
携帯やパソコンを見ていると過去の履歴に関係のある広告や写真が表示されることは皆さんもご経験があると思います。
昨日、私は何かのきっかけにFACEBOOKを開いたのですが、一番上に懐かしい写真が表示されていました。
これは2012年12月3日にモロッコの南西海岸で撮影されたものです。
私たちはこの地にベースキャンプを築き、約1週間周辺の波を求めていました。
まだロビンが本格的にフランスに拠点を築く前のことですが、このトリップがその最終的な決断のきっかけとなったのは間違いないでしょう。
「来週はうねりが届きそうだ」というロビンに対し、「彼女と一緒にクリスマスを過ごしたい」と言ったクリス。
幼い頃より付いたり離れたりしながらも二人三脚で築いてきたガトヘロイという牙城にひびが入った瞬間でした。
それまでならロビンの強硬で横暴な態度によってクリスが折れることが当たり前だったのですが、この時は決して折れることなく、むしろこの機を予想して待っていたかのように頑なに反抗の態度を崩しませんでした。
始まる前から波乱に満ち、最後に少し寂しい結末を迎えることになったこの旅は今でも私にとってとても印象に残る貴重な経験となっています。その後のロビンの活躍は皆さんの知る通りですが。
【ダイナミックエンデバー“SURFAR!”】
遡ること2週間前、パリのシャルルドゴール空港に降り立った私は少し遅れてロサンゼルスから到着するクリスの出迎えに向かった。
現れたクリスは片手にすべての荷物を積み込んだ手製のダッフルバッグ、そしてもう片方の手には7'11ftの見慣れないボードを持っていた。そのボードはエアキャップに包まれた状態ではなく、片面にワックスが塗られたままのいわゆる裸の状態だった。
「それで平気だったの?」と私が訪ねると、「バッグに入れているより丁寧に扱ってくれるんだ」と言った。
私はそのことに感心するよりも、トランジション系のアウトラインながらほぼロッカーのないように見えるそのボードの形状に惹かれていた。
そんな私の疑問に気付かないクリスは市内行の列車のチケットを買うためにチケット販売機の前に立ち止まった。
何度かボタンを押したりした後、クリスは「買い方がわからない」と私に言った。
約12年ぶりにパリに来た私にもその販売機は手ごわいもので、結局窓口で2人分のチケットを購入した。
電車の中で私はこの旅の予定についてクリスに尋ねてみたがクリスは「ロビンに聞かなきゃわからないよ。知ってるだろ、あいつ説明できないんだから」と言った。
私は3週間を超える長い日程と久しぶりのヨーロッパを満喫したいということもあって「俺はモロッコまで行って少し落ち着いたら、格安航空券を買ってスペインやイタリアを周りたいんだ」とクリスに言った。
すると「それは無理だよ。だってモロッコではキャンプするんだから」、「俺とお前はいつも一緒に被害者だな」というような眼をしながらクリスは言った。
蒸気に濡れたテントの内側、ムッとした内気、虫の襲来・・・私は幼い頃よりテントというものが好きでなかった。
どちらかというと乾いた布団にくるまれるほうが好きだった。だから50歳を過ぎてテントに寝るとは想像もしていなかった。「何とか切り抜ける方法を見受けなきゃ・・・」と私はパリの夜の灯りを見ながら考えていた。
パリ北駅を降りるとそこは何となく秋葉原のような雑踏だった。私たちはホテルまでの距離がかなりありそうだったのでタクシーに乗ることにしたが問題はクリスの持っているサーフボードだ。
「サーフボードって言ったら断られる可能性があるから、お店の看板の一部ということにしよう。どうせパリのタクシー運転手はサーフボードのことは知らないから」とクリスが提案し、そのおかげで意外にも簡単にタクシーに乗ることができた。
無事にホテルに着いた私たちはさらに問題に降りかかってきた。予約していたホテルの部屋はダブルベッドだというのだ。他に部屋がないということで仕方なくその後の4日間はクリスと添い寝するしかなくなった。
部屋にいて隣り合わせでベッドに寝そべっていてもしょうがないので、私たちは夜も街に出て遅めの夕食をとることにした。
日曜日の遅くだったがパリの中心なのでレストランには事欠かないだろうと思っていた期待はすぐに裏切られた。私たちのホテルの周辺は観光地の真ん中だったので、私たちは真っ先に目に飛び込んできたオペラハウスに向かった。
偏食家で肉、しかもフィレしか食べないクリスのためにようやく一見のレストランを見つけた。かなり華やかな雰囲気で期待ができる様子だ。案内された席につき、ステーキとワインを注文した後、周囲を見回しクリスが小声で言った。「日本人とロシア人しかいない。ちょっと失敗したかも・・・」
パリを旅した経験がある方ならわかるかもしれないが、何の情報も持たずにおいしいレストランにたどり着くことはほぼ不可能だということを。結果、私たちの注文したステーキは今までに食べたことのないようなしろものだった。
「明日は美味しい食事をしよう」と言いながら、私たちは並んでベッドに横たわった。
私たちが目的地であるモロッコに直接向かわず、パリを経由したのには理由があった。【SURFAR!】と名付けられた今回の旅はデジタルではなくフィルムによってその記録を収めることになっていた。
そのためすでに当時でも入手が困難だったスチールカメラ用と8ミリカメラ用のフィルムを調達することが私たちの任務だった。
私たちはタクシーと徒歩でかなりの件数のカメラ屋を周り、カバンいっぱいのフィルムを買い込んだ。
その夜、二人のゲストが日本から到着した。旅に参加する中村清一郎氏と清太郎君だ。
中村さんはロビンキーガルの才能をいち早く見出した人ですでにロビンとは前年にフランス、イタリア、ニューヨークを旅していた。中村さんは息子である清太郎君を世界最先端のロングボードに乗り、ダイナミックなアドベンチャートリップへと向かう集団に引き合わせることによって大きな刺激を与えようと考えたようだ。
ただなぜ二人もパリに立ち寄ったのかは今となっては思い出せない。しかしパリに詳しい中村さんのおかげで私たちは美味しい夕食にありつくことができた。
思いのほか簡単に任務をこなせたので、私たちはいつでもモロッコに向かう態勢を整えていた。
ただしそれはロビン次第だった。ロビンはその時、フランスのビアリッツにいた。ビアリッツで旅に参加する人数分のサーフボードをバンに積み込み、スペインを縦断しジブラルタル海峡をフェリーで渡り、モロッコの首都ラバトのホテルで合流する予定だった。長距離の移動になるため一人ではきついので、いつもどおり写真家のペロさんが運転手として帯同することになっていた。
私はパリからいつでも出発できることをペロさんに電話した。しかし帰ってきた答えに驚かされた。「出発するためにホテルをチェックアウトしたいんだけど、お金が足りないんだ・・・」
今からアフリカ大陸に旅に出ようっていうのに、もう金欠かよ・・・と先行きに不安を感じていたが、数日後にはお金が手に入るらしいということになり、私たちはなすすべもなく、その間ずっとパリで過ごすことを余儀なくされた。
ルーブル美術館、シャンゼリゼ、サンジェルマンそしてベルサイユ宮殿。私たちは表面上ただの観光客となっていた。しかし11月末のパリは大変寒い。石造りの街はまるで冷蔵庫のように私たちの体を芯から冷やした。それはその後、テントの中の中村さんに苦境をもたらすことになった。とにかくアフリカに行く用意しかしてなかった私たちは寒さに震えながらパリの街をさまよっていた。
数日後、ペロさんから出発できるという一報が入り、私たちは急遽、ラバト行きの飛行機に乗り込んだ。
コーランが鳴り響くラバトに降り立った私たちを再び悲劇が襲った。
パリで預けた荷物のうち、クリスのダッフルバッグが出てこないのだ。
まったく言葉が通じない状況の中、何度も掛け合ったがなすすべもなく、私たちは空港を後にするしかなくなった。
そのバッグの中には、パリで購入したすべてのフィルム、サーフボード用のワックス、そしてフィンを止めるボルトとナットが入っていた・・・
私たちはタクシーに乗りホテルの名を告げた。私たちを待ち構えていたのは、それまでに見たこともないような風情を持つ瀟洒なホテルだった。
どうやらロビンファンのフランス人の親族が経営しているらしく、私たちは格安で泊まることができるそうだ。
絨毯の敷かれた長い廊下の先に私とクリスの部屋があった。ホテルのラウンジで寛いでいると、ロビンから電話がかかってきた。
「車の車検証が見つからなくてスペインからモロッコ行きのフェリーに乗れない」ということだった。いったいいつになったら旅が始まるんだろう
(続く)
このころの写真は私のパソコンのハードディスクがクラッシュしてしまったため、残念なことに何も残っていないので当時のFACEBOOKから取り出しました。
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相変わらず自分のシェープしたボードを自画自賛していますが、送られてきた写真を見ると納得です。
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シーコング藤沢店
田中